朝来みゆか・羽戸らみ合同誌 『2-byte character』 発行記念特設ページ



雨と氷の帰る場所


「【あめ】がいなくなった」
【こおり】が告げたのは夜明け前、朧ろな月が隠れるべきか姿を現すべきか迷うように空で揺れていたが、【こおり】と【みず】の二人は煌々と明かりの灯った室内にいた。
「仕事が長引いてるんじゃないの」
 答える声が不機嫌な色を帯びているのを自覚しながら、【みず】は洟をすすった。今夜は冷える。なぜだろう。【こおり】のせいではないと思うが、湯呑みに触れていないと、かじかんだ手先が溶けない。
「とっくに戻ってきていい頃合いなのに。あいつがこんなに長く表に出てたことなんて今までにないんだ」
【こおり】は浅く椅子に腰かけ、両膝に両肘をつく形で上半身を丸め、拝むように手指を組んだ。
【みず】は白湯を一口飲むと、書きかけの書類に向かった。
 かたかたと音がする。【こおり】の貧乏揺すりだ。見とがめる【みず】の視線に気づいた【こおり】は、前髪の隙間から暗い瞳をのぞかせた。
「……やめろってんだろ、わかってるよ。うるさい音を立てるな、うちに貧乏神を呼ぶな、ってね」
「俺はまだ何も言ってないけど」
【みず】は立ち上がり、窓辺に近づいた。ガラス越しに見上げる空にどれほど雲がかかっているのか、目を凝らした。月も星も見つけられない。
【みず】の仕事は主に「さんずい」と「したみず」として水に関する漢字を表することだ。弟の【こおり】が兄を追いかけるように「にすい」の仕事に就いたとき、【みず】は特に何の感慨も抱かなかった。自分と同じく部首として生きる道を選んだ弟に、ああそうか、そうなるんだな、と思っただけだ。やりがいのある仕事だとか、一文字一文字をおろそかにするなとか、年長者らしいあるいは先達としての教訓など述べるつもりはなかった。【こおり】には不要だろう。【こおり】ならばきっと仕事を全うする。求められる責務を充分に果たすに違いない。他の部首に惑わされることなく、無駄なく、まっすぐと。
 あのときの信頼は裏切られていない。
「俺、見てくる。やっぱ心配だ」
【こおり】が椅子を蹴った。
「見てくるってどこを」
「そのへん。【あめ】が間違って入り込んでそうなとこ。夜だし迷ったのかも」
「ミイラ取りがミイラにならないようにしてよ」
「任せとけ」
【みず】は思う。冷たさの代名詞でもある【こおり】の優しさは、身内である【みず】と【あめ】に対してのみ発揮される。だから表には知られていない。【こおり】がこうも熱くなる姿は見慣れない、けれど悪くない。

 白い腕に抱き締められたあの日。
 港が溺れ、漁村は泥に塗られ、激しい波が世界の縁を洗った。
 憎まれながら恨まれながら【みず】は任務をこなした。水の恵み、温かい湯のありがたみ、海の豊かさを誇りに思ってきたのに、耐えがたい悲しみの場に引きずり出された。
「消えてしまいたい」と泣いた【みず】の顔を、【こおり】が冷たい手で包んだ。
「心にひびが入ったなら、砕け散らないよう凍らせてしまえばいい」
 そうだな。絶望の底で【みず】は思った。海が凍ればもう陸を侵食することはないんだ。建物は沈まない。涙は流れない。月の引力に対抗する不動の世界が表に現れれば。
 願いはしかし叶わない。神様なんていないのかもしれない。
 こちらは裏。表の慣習や流行が裏にもたらされても、裏が表に影響を及ぼすことはない。泣き腫らした目をこすり、翌日も【みず】は仕事に出た。つらいのは自分だけだと思っていた。まだまだ若輩者だった。
 長く「あめかんむり」を務めた長老が震える声で引退を宣言したのは、あの日から半年が過ぎた頃で、それはつまり【あめ】の代替わりを意味した。新しい【あめ】の誕生が喫緊の課題となった。
【みず】と【こおり】の末の弟が新しい【あめ】に推挙された。他に適任者はいないという押されようだった。
「無理だ。こいつはまだ若い」と【こおり】が断った。名前のない弟をかばうように背後に隠し、役人や野次馬を追い返そうとした。確かにまだ若い、と【みず】も思った。熟練の【あめ】から業務を引き継ぐには、あの子は幼すぎる。何の経験もない。そう言うと、末の弟は答えた。
「うん、僕はゼロから始めようと思う」
「ゼロ?」
「零だよ。僕は世界のことを何も知らないから」
 なるほど。「零」も【あめ】の仕事だ。
「いいかもしれないね、やってみても」
【みず】が立場を翻すと、渋っていた【こおり】もしかめ面でうなずいた。
 ただし仕事が終わったら寄り道などせず、すぐに衣装を脱いで帰ってくること。お前も俺も、帰る家はここなんだからな、と【こおり】は【あめ】になったばかりの弟に説いた。

 あんなことを言っていたのに。
【あめ】だけでなく【こおり】も戻ってこないとは。
【みず】はそわそわと部屋の中を行ったり来たり歩いた。静かな雨音が外を覆い、生まれたてのやわらかな光が朝の訪れを告げている。
「傘、持っていかせればよかった」
 弟たちは濡れてみじめな思いをしているのではないか。
 もしこのまま二人が帰ってこなかったら、と【みず】は考えた。考えを深める間もなく表に呼ばれ、「浄」「汚」「注」の仕事を淡々とこなした。働くにあたり、清濁併せ呑むのが最も重要な点だと【みず】は思っている。
 家に帰ると、まだ【こおり】も【あめ】も帰っていなかった。
「【こおり】……【あめ】」
 二人の名前を呼んでみた。声はむなしく家に響いた。【みず】一人では広すぎる家だ。
 座って待っているだけでは気持ちが沈む。【みず】は浴室の灯りをつけた。洗剤を振りまき、浴槽を洗い始める。泡を含んだ水が排水口に流れてゆく。弟たちが戻ったら、温かい風呂に入れてやりたい一心で洗った。
「ただいまー」
「……遅くなった」
 ようやく二人の声を聞いたとき、【みず】は湯船のへりにもたれて眠りかけていた。よいしょ、とかけ声と共に立ち上がる。腰が痛い。
「心配かけてごめんね」と先回りして【あめ】が謝る。これでは怒れない。既に【こおり】が叱った後かもしれないのだ。
「体、冷えてるんじゃない? 湯加減はばっちりだから、お風呂に入って。風邪を引かないように」
 うん、と潤んだ目で【あめ】がうなずく。一体どこをほっつき歩いてたんだ、と問い質したいのを【みず】はぐっとこらえる。
 衣類を取り去った【あめ】が浴室に消えるのを確かめ、【みず】は【こおり】に冷酒を出してやった。
「お前まで帰ってこないかと思ったよ」
 それはない、他にどこ行くってんだ、と【こおり】が苦笑する。
「あいつさ、仕事でミスったんだ」
 浴室の方を見やって言う。
「今年初めの霙を降らすはずが、雹を降らしちまって、役人にさんざん絞られたらしい。長い夜だったわけだ」
「霙か……俺が助けてやれなくて、かわいそうなことをしたなぁ」
「何言ってんだ。そのうち雪の仕事も増えるだろ。いつまでも兄貴がついてたら、表に冬らしい冬が来ない」
「それもそうだね。しかしまぁ、零から始めたあの子が霙とはね……こっちは年取るはずだよ」
「おいおい。引退とか早すぎるぞ。俺ら三人で気体から液体、固体までがっちり固めようぜ」
「固めるのはお前だけで充分だ」
「溶けないのが俺のアイデンティティだからな」
【みず】と【こおり】は目を見合わせて笑った。
 浴室から鼻歌が聞こえてきた。
(『雨と氷の帰る場所』 了)


お読みいただき、ありがとうございました。
本誌『2-byte character』と合わせてお楽しみいただければ嬉しいです。
なお、霙はみぞれ、雹はひょうです。あめかんむりの字は難しいものもありますね。

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